ミニバス時代

父親が監督そして父親の友人がアシスタントコーチ、

母親がマネージメントをするという形で本格的に「ミニバスケットボール」が始まり、週末は全て練習か練習試合。

 

姉はキャプテンを務めあげ設立早々になかなかの結果を出します。

優秀な姉。彼女は指導や注意をされる事はありながらも叩かれる事はありませんでした。私は優秀な姉を「すごいなぁ~」と思っていました。

でも、優秀な姉の妹だから。とちやほやする上級生や父兄の扱いが、眼差しが疎ましかった。

そして姉が小学校を卒業すると次は私の番。

「私はお姉ちゃんじゃない!」そう思いながら、私もキャプテンに。

統率力もなく知性もなく協調性に欠ける妹。どう考えても適任ではないのに。

同じようなプレイヤーになれない私を父はよく叩きました。

顔も頭も。そして成績が芳しくない私達の年代で父は下級生や父兄の前で思い切り私の太ももを蹴り上げました。

しばらく痛くて痛くて情けなくて悔しくて動けない私は「なんでこんなことまでしてバスケットしなくちゃいけないんだろう・・・・・」と思っていました。

そして「なんでお母さんは助けてくれないんだろうか?声をかけてくれないんだろうか?」と放心していたのを覚えています。

次の日、左の太もも全体に濃くて大きな痣を眺めて「私は愛されていないのだなぁ~」としみじみ思って泣くのを堪えた事、そんな嫌な思い出だけは色濃く残るものです。

甘える事も泣くことも出来ず強がって過ごすしかなかった幼少期。

私の心が困惑し、傷つき、相談相手もおらず、親への不信感が強くなったのはこの頃からです。

広告の裏側に両親を誹謗中傷する言葉を書きなぐっては破って捨てる。

常に反発し、叩かれる。

心が棘だらけになり、学校生活でも男女の違いがはっきりしだす頃私はいつも1人。

修学旅行のグループ分けで一緒になる友達がおらず、放課も図書館で1人。

私はよく図書館で泣いていました。帰りたくもなく、学校にもどこにも私の居場所はない。泣きながら平日は学校で本を読み漁っていました。

 

母親にも父親にも相談したことはありません。

傷ついていようが物言いの冷たさも態度の悪さも変えなければ集団生活にはなじめません。

母は私の様子に気が付いていたと言います。

それについて何も話し合った事はありません。ただ、担任の先生に何かしら言われていたようです。「あんたはそういう子だからさ。そういう星の元に生まれたんだよ!」とよく言っていました。

勿論、私に非があったのだろうと思います。

幼少期から私はこうなんだ。どうせ私は。と、ネガティブな発想はどんどん強くなっていきます。

急激に背が伸びて成長に追いつかない膝の骨の痛みに悩みながら私は中学へ。

 

姉は1年先に入学し既にここでも有名人でした。