監督

私は高校3年間と卒業後の2年間の記憶が僅かしかありません。

自分の両親、特に母親との確執に苦しみ、苦しみから逃れるように入った寮生活。

そこは確執とはまた違う地獄でした。

間違っている事でも先輩がYESと言えばそれが正しい。

自分の意思など持ってはいけないような中で寝起きをし、先輩に気を遣いながら、機嫌を損ねないよう細心の注意を払っていたつもりです。

ですが、私のような姉が1つ上の学年にいるような下級生は珍しく、

皆と同じことをしているつもりでもよく怒られていました。

私は気の利かない後輩でした。

「あぁ・・・これが母のいう(そういう星の元に生まれた定め)事なんだな。」

洗濯物を外に干しながら、よくぼうっと考えていました。

 

半年も経つと、泣いたら恥だ。泣いたらダメだ。そんな思いが強く働き、先輩や監督から殴られても絶対に泣かなくなりました。

泣いちゃいけない。甘えちゃいけない。そう思っていないと何も出来なくなりそうだったからだと思います。

誰の役にも立てない、必要とされていないそういう思いが強くなった3年間。

私が得たものは何もありません。

 

でも、私の母親はたまに会う私に

「金がかかる」「誰のお蔭で高校に行けたのか考えなさい。」

「負けるな」「頑張りなさい。」と言いました。

口を開けばバスケの話。姉の話。父母会の話。

私はもっと普通の世間話や、一般生の友達の話なんかがしたかったなぁ。

出来る訳はないけれど。それは分かっているけれど。

 

私に事あるごとに絡んでくる嫌な人が数人いた3年生の先輩達が引退すると

1・2年生が主体となるチームに切り替わり、練習は厳しくなりました。

私の姉はよく疲労骨折をしていました。

監督は「気を付けて練習しろ」という奴でした。

彼女は痛みに顔を歪ませながら練習を続けていました。

鎖骨を折っても練習させられていました。

私は怪我の多い選手でした。松葉杖を使用する事が度々ありました。

怪我をしても練習を止めるな!続けろ!という人です。

勿論、「大丈夫か?」なんて声を掛ける人ではありません。

「大事な時期に怪我なんかしやがって。お前は使えないやつだ」いつもそう言われてい

ました。人権無視。日常茶飯事でした。

でも、数人のお気に入りの選手は宝物のように扱っていました。

笑顔すら見せ、顔を近づけ冗談を言う。

私も姉もお気に入りの選手ではありませんでしたので扱いはめちゃくちゃでした。

八つ当たりなんて毎日で、そんな奴が学校では地位のある職位でおまけに信頼が厚くて私の卒業数年後には教頭の地位になりましたが・・・・・。

世の中終わっている。高校3年間は世の常を目の当たりにしていました。

人として正しくない人間に3年間も自分の娘達を預けた両親もおかしいですが、

監督は不誠実そのものな男性でした。

仕事のイライラや家庭の問題の八つ当たりを寮生にする。そんな人の元で過ごした3年間。勿体無かったなぁ・・・・・。今でもそう思っています。

 

悲しいかな、そんな奴に言われたネガティブな言葉だけははっきりと胸の内に残っています。

人は沢山の幸せよりも1つの悪い出来事が強く残るのは・・・・・・それって悲しいなぁ。その後の私が幸せになれている事。。。。あの当時の幼い私に伝えてやれたらいいのに。

 

どらえも~ん・・・・・・・・・・・・・・・・