中学生の時の自分  自己肯定感の大切さ  自分の意思が持てることの大切さ。

私は中学2年生の多感な時期をもがき苦しんでいました。

人を思いやる気持ちが持てない自分。誰にも必要とされない自分。愛されない自分が大嫌いでした。

それは、両親や監督から受ける罵声や否定的な言葉。自分とかかわろうとない両親から受ける態度が自分の心にさらなる自己肯定感の欠落をさせるのです。

私は両親が嫌いでした。でも、多感な時期でも子供です。

「愛されない・必要とされたい・自分を見てほしい」絶望しながらも当然の欲求をもっていました。

私は小さな反抗を沢山しました。(自分で言うのもなんですが。)

でも、*1

それは、なぜだったのだろう?あの時の私は何故言いなりになったのだろうか?

何度も考えます。翼があるのに飛ばない鳥。私はずっとそうでした。

習い事も言われるがまま。バスケも言われるがまま。

そしてその負の連鎖が自分の未来への希望を見いだせずに自分の意思を持つことを諦めさせていきました。

マラソンを強要されている頃から始まって、私は精神的な自由がないまま大人になります。叩かれて殴られたから?親にこれ以上嫌われてはいけないと思っていたから?

バスケット以外での経験があまりにも乏しいから? 訴えても「ダメ」で終わってしまうから?未だに明確な答えはみつかりません・・・。

そして、見つからない事も理解しています。

 

 

そんな環境で育った私からこそ、子供が「自分は必要とされているんだ!」「失敗しても次頑張ろう!」「きっと自分は大丈夫!」という自己肯定感を得る環境・経験を積むことが何より大切なのだと思うのです。

そんな経験を重ねる事によって子供は精神的な自由を手にすることが出来る。

子供は押さえつける道具ではありません。

 

自己肯定感と自分の意思を持つこと。これらは私には全くなかったもの。出来なかったもの。でも、私だからこそ子供に伝えられるのかもしれません。

この経験がなかったら私は母親と父親と同じになっていました。確実に。

 

中学2年生の夏。姉の代の先輩が引退しいよいよ自分たちの代に替わる時。

私はI先生と一悶着します。

 

 

 

*1:進学・進路・付き合う相手 は全て親の言うとおりにしています。